第39回澁澤賞

第39回澁澤賞は厳正なる選考の結果、下記の通り受賞者が決定されました。

 

受賞者: 山口 裕子
対象業績: 著書『歴史語りの人類学 ― 複数の過去を生きるインドネシア東部の小地域社会』
世界思想社(2011年)

推薦理由

 本書は、インドネシア・東南スラウェシ州に組み込まれているブトン社会において、かつて香料交易時代に繁栄していたブトン王国の成立過程について語られる、不整合で矛盾する「歴史」(口承史)をめぐる民族誌研究であり、著者は、長期のフィールド調査にもとづく調査データと文献史料を織合わせながら精緻な論述を展開している。また、著者がフィールド調査の過程で現地の政治社会関係に否応なく巻き込まれていく過程が鮮やかに描き出されていることも、本書の大きな特徴である。

 ブトン王国の成立をめぐる「歴史」には多くのバリアントがあるが、著者が焦点を当てるのは、ブトン王国の中心地だったとされ、現在においても王族や貴族の住む王城要塞村落ウォリオで語られ、ブトン社会で広く知られている「歴史」と、それを否定しつつ自分たちの「歴史」の正しさを主張する、平民の住む村落ワブラの「歴史」である。この両者を丹念に比較することで、両者の異同を明らかにするとともに、文献史料と突き合わせることで、両者は文献史料の語る「史実」との整合性が希薄である点では類同であることが明らかにされる。参照されるべき文献史料、とくにオランダ語の行政文書等は今後さらに発掘されるべきだが、本書における、これらの論述が展開されている諸章の内容は詳細かつ具体的であり、秀逸な民族誌に仕上がっている。

 また、本書において著者は、ブトン王国の成立過程という迂遠な過去の「歴史」にブトン人たちが執着し、熱く語る、その近現代史的背景を明らかにすることにも果敢に取り組んでいる。オランダ植民地支配期からスハルト政権期にいたる支配体制や統治機構のなかで、ブトン社会は政治的にも経済的にも周縁化されてきた。このことを各種の資料を用いて実証的に明らかにしたうえで、著者は、スハルト政権崩壊後の民主化、地方分権化、慣習法復興が活発化するインドネシア地方社会の現状のなかで、ウォリオやワブラの人々は自立した政体を営んでいたと想像される時期のブトン王国の「歴史」の語りを通して、自分たちの政治的中心性や誇りを取り戻そうとしており、それゆえ、彼らの「歴史」をめぐる語りはインドネシア地方社会の現在と密接な関連をもっていることを説得的に論じている。

 本書を高く評価できるもう一つの大きな理由は、人類学的な歴史研究で採られてきた近代西洋的な既存のアプローチが民族誌研究を通して綿密に検討されていることである。著者は慎重に議論を進めながら、ブトン社会では、そうしたアプローチによっては適切に理解することのできない、「歴史」の語りを中心とし、「歴史」の語りを含みこんだ生活が営まれているという結論に達している。この結論は、人類学の存在論的転回などとの関連において、今後大きく展開される可能性をもっており、脱自的な他者理解の営為としての人類学が目指すべき方向を指し示す提言として評価できる。

 以上の理由により、選考委員会は全員一致で、山口裕子氏の著作を澁澤賞にふさわしいものとして推薦する。

澁澤賞選考委員会

杉島敬志(委員長) 足羽輿志子
栗田博之 佐々木史郎 池田光穂


受賞者略歴 山口 裕子(やまぐち・ひろこ)
2008年一橋大学大学院社会学研究科 博士後期課程修了
博士(社会学)取得
2010年一橋大学大学院社会学研究科 特別研究員(現在に至る)
2012年第1回三島海雲学術特別賞 受賞



2012年12月8日に日本工業倶楽部にて贈呈式が行われました。


澁澤賞メダルを受け取る山口氏


左から、小野澤運営委員長、山口氏、杉島選考委員長