本書は、カトマンズ盆地の先住民族ネワールの一カーストであるカドギの人々が、現代ネパールの激しい政治的・経済的変化のもとで「カーストを生きぬく」様子を描いた民族誌である。カドギは、現地では、供犠を行うとともに肉売りに従事する「低カースト」の人々とされる。中川氏は合計5年間の粘り強い調査をもとに、彼らが生きる現実を奥深くかつバランスよく捉える中で本書を書き上げている。 全体は、カドギのカースト役割を概観した第T部、市場化による肉の流通の変化とそれに伴うカドギたちの生の変容を扱った第II部、そして、カースト団体NKSSによるカーストの再解釈をめぐる第III部に分かれるが、なかでも出色なのは第II部である。1990年代以来のネパールにおける民主化や市場化の急速な進行のもとで、食肉市場の近代化、食に関するタブーの緩み、(グローバルな面も含めた)肉の消費の増大といった動きは、肉売りをカースト役割とするカドギに大きなビジネスチャンスを与えてきた。彼らはその流れの中で、高カーストの人々と新たな関係を営んだり、外国人やムスリムらと新たな交流関係を築いたりしながら「低カースト」のスティグマを少しずつ克服してきたのである。こうしたことは基本的には個人としてのカドギたちの創意と努力の結果であって、上からのカーストの再定義によるものではない。他方、このような変化は彼らのカースト役割を前提としたものであって(彼らの肉売りの仕事は依然として儀礼活動と結びついている)、もちろんカーストの否定でもない。第II部における、こうしたカドギの生の複雑な様相をめぐる緻密な描写は、第III部におけるカースト 団体のアイデンティティ政治についての懐の深い考察とも組み合わせられた形で、カドギによる「下からのカーストの再創造」の様子を力強く示してゆく。 本書が独創的な点の一つは、中川氏がカドギを含んだ全体社会の描写を目指すのではなく、カドギという一カーストに徹底的にこだわって描写を行なっていることである。そのことは本書に、人々が現代を生きるダイナミックな状況を、個人レベルに目が届く形で、しかしカドギ全体への視点をも失わずに、重層的に捉えるという目覚ましい達成をもたらしている。南アジア研究の観点からいえば、こうしたアプローチはおそらくサービス・カースト一般に関する研究に新たな道を開くものであり、また本書の内容全体は、カーストと消費社会の拡大、市場経済との浸透を考える上でも興味深い資料を提供するものである。より広い視野からいえば、現代世界における食の問題、さらには人間と動物の関係の問題を考える上でも、きわめて示唆的な民族誌だといえる。 本書は、必ずしも斬新な理論で新たな人類学を導こうとする本ではなく、また華麗な文章で読者を引き込んでゆくものでもない。しかし、この本の堅実で地味ともいえる文体はとりもなおさず、文化人類学者としての中川氏が現地の人々と時間をかけて築いてきた分厚い関係の表れでもある。インフォーマントとの真摯な関係を背景に、人々の生の肯定の姿をじわじわと、確実に、民族誌的に描き出していく本書が文化人類学的に大きな価値を持つものであることは審査委員全員が認めるところであった。したがって選考委員会は全員一致で中川加奈子氏の著作を渋澤賞にふさわしいものとして推薦する。
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平成29年12月2日(土)、日本工業倶楽部において授賞式が開催されました。 | |
賞状を受け取る中川氏 |
左から、杉本運営委員長、中川氏、松田日本文化人類学会会長 |