本書は、知識の「所有」という大きな問題設定に基づき、「在来知」を巡る国家の活動では先進国であるインドをフィールドとして、生物資源や伝統医療の領域に現代的事象である「知的所有権」という考え方が持ち込まれた時に何が起こるのかを、多面的に探究した成果である。具体的には、「薬草州」として知られるウッタラーカンドで行われたプロジェクトを対象に、「ヴァイディヤ」(アーユルヴェーダの民間の治療師)や農民、科学者や行政官などの実践間の翻訳と実践自体の変化に焦点をあて、「知識はどのようにして誰かのものになるのか」という問いを追求した。知識の提供や治療などと知的所有権概念にかかわる翻訳のただ中にあるフィールドで緻密な多地点的調査を繰り広げ、「権利」という概念にくくられない知識の所有をめぐる多様な考え方と実践を描き出した本書は、科学技術社会論と地域研究の双方を見据えた力強い民族誌である。 また本書は、人類学的所有研究において独自の視点を提示している。著者は、データと諸理論とを相互対照しつつ、データの理解と自らの理論的立場とを共に洗練させて行くという作業を続け、ローカルな実践にかかわる場に「所有」概念が導入されることで新たな主体がたちあがる過程を描き出した。たとえば、「ダヤー」(慈悲)として知識を与え利益の分配を固辞したヴァイディヤたちが求めているものは、新しい知識を得て自らの治療実践を豊かにする未来への希望であったという、知識の「所有」について人々が捉えている多様な意味あいが、著者の分析により照らし出された。 さらに著者は、民族誌的検討の成果をもとに、「西洋的な」知的所有概念を基礎づけるとされてきた思想としてジョン・ロックの労働所有論について再考した。そして、過去に付加した価値に対する権利というだけではなく、皆が生きる世界の未来に関する責任と義務という、これまで看過されてきた側面を指摘することで、人類学が法学、経済学、哲学をはじめとする諸科学との対話を生かして、「所有」というテーマを考えることの意義を明確化した。 不断に自分自身を相対化する民族誌を編む作業を粘り強く遂行し、多様な人々との関係性のなかでこれまでの「所有」についての考え方を相対化する知を生み出した本書は、オルタナティブな人間観と人々の暮らしの豊かさの可能性を広く世界の読者に語りかけるものとなっている。真摯に言葉を選び紡いだこの作品は、繰り返し読まれ、人類学・民族学の実践の一つの道標となるであろう。 以上の理由により、選考委員会は全員一致で、中空萌氏の著作を澁澤賞にふさわしいものとして推薦する。
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令和2年12月5日(土)、Zoomにて授賞式が開催されました。 |
賞状とメダルを手にする中空氏。広島大学研究室にて |